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金華山ってこんな山
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金華山は岐阜市の中心部にあり、頂上には道三や信長が城主となった歴史を持つ岐阜城復元されている。都市部にある山にも関らず、長い間人の手を入れられることのなかった金華山は、自然本来の植生を保っている。現在、岐阜市のシンボル的存在として市民のランドマークや憩いの場として市民から愛されています。 |
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もくじ |
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1.金華山の現在の姿 |
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■標高 |
328.8 m |
■森林面積 |
約597 ha (内国有林: 198 ha) |
■森の様子 |
金華山全体の森の内、
天然林93%・人工林約2%・
その他5%
と非常に天然林の割合が高い。
※人工林は、伊勢湾台風などの風による倒木処理跡地に植栽約2%。
また代表的な木としては、
山 裾:ツブラジイ 北斜面:アカマツ・ヒノキ 南斜面・頂上付近:
アベマキ・コナラ などが見られる。 |
■地質 |
チャート層と泥岩層からなる。 |
■滝 |
金華山には次の3つの滝がある。
松韻(しょういん)の滝 落差25 m
凌雲(りょううん)の滝 落差22 m
古井の滝 落差 15 m がある。 |
■頂上 |
頂上には、昭和31年に復元された岐阜城がそびえ、近くには岐阜城資料館があり岐阜城の歴史を知ることができる。 |
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2.金華山の森を守ってきた人々 |
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江戸時代になると金華山から加納城へと天守や櫓(やぐら)を移されると、金華山は天領(幕府が直接おさめる土地)として管理され、また尾張藩主の狩場として使われたため、一般の人々に山に入ることができませんでした。
明治時代以降になると一般の人たちも山に登ることが許されましたが、森は御料林、国有林として保護され現在にいたります。
現在は、森林管理事務所や岐阜市やNPO・市民活動の方々によって守られています。また、それぞれが管理していた当時の形跡・印も金華山登っている途中では見ることができます。
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3.現在の森が広がるまで・・・・金華山の森の移り変わり |
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金華山といえば、昼間でも薄暗く1年中青々とした緑の葉をつけるツブラジイの森が特徴的ですが、昔からツブラの森が広がっていたわけではないのです。昔は、金華山はアカマツの森が広がり森の中は今よりも明るく、また金華山のアカマツは長良川の鵜飼いのかがり火用の材として使われたと言われています。
では、アカマツの森から今のツブラジイの森にどのように移り変わっていったの?
金華山は上記で書いたように江戸時代には天領、明治以降は官林・国有林として保護をされてきたためその他の山とは違い、一般の人たちの生活のための木の伐採が行われなかったため、
森は自然に移り変わっていったと考えられています。
アカマツの森では青々とした木が山をおおうため森が少し暗くなります。こうなると明るい場所を好むアカマツは新しい芽を出せません。そうしていると少し薄暗くても成長できるアベマキやコナラの落葉高木(秋に葉を落とす高い木)が下から成長してきます。こうしてアカマツの森は、アベマキやコナラの森へと移り変わっていくのです。
コナラ・アベマキの森からツブラジイの森も同じように移っていったと考えられます。ツブラジイはアベマキやコナラなどよりさらに薄暗くところでも成長することができます。ツブラジイは常緑広葉樹(1年中緑の葉をつける)なので森をさら暗くしました。このような移り変わりを江戸時代から400年くらいの時をかけ森が現在の森へと移り変わっていったのです。
金華山のようなこの状態を極相林といいます。全国的に市街地に近い山で極相林の山が残っているのは非常に珍しいといわれています。
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4.難攻不落の城岐阜城 |
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金華山に建物が建てられたのは鎌倉時代の1201年二階堂行正が軍事目的で金華山に砦を建てたのが最初だと言われています。その後、伊賀光宗によて「稲葉山城」とされました。
室町時代に入り、1412年代守護大名の斉藤利永が修復し、城に住むようになったと言われています。また、利永は加納城を築城しました。
戦国時代に入り、1539年には斉藤道三は城を再興し入城しました。1567年、城主 斉藤龍興(たつおき)が織田信長に攻められ稲葉山城を開城し、そして信長によって稲葉山城から「岐阜城」と名前を改められました。その後、政変や戦乱の中で1582年に羽柴秀吉、1600年には関ヶ原の戦いにおいて東軍に攻められ落城した。その後、1601年に天守・櫓(やぐら)・石垣などを加納城に移されました。
1910年(明治10年)には、復興天守が建てられましたが、1943年(昭和18年)に消失。1956年に市民の多くの寄付により現在の岐阜城が建てられました。
難攻不落といわれた岐阜城ですが戦乱の中、6度の開城・落城しました。その時に多くのドラマが岐阜城を歴史の舞台の中心として今も多くの人を魅了しています。
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5.大昔は、南半球の海の底にあった金華山・・・・金華山の地層 |
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大昔、金華山は南半球の海底にありました。
それは、金華山を作っている地層の内の一つチャート層を調べるとわかります。チャートは、大昔海にいた放散虫が海底に蓄積しできた地層です。この放散虫を調べると、その種類から2億6000万〜2億3000万年前にできたことがわかっています。また、最近の研究では金華山のチャートは南半球でできたことがわかっています。つまり、現在の金華山は、2億3000万年前には南半球の海底にあったのです。それが、何億年・何百万年かけてプレート運動によって現在の位置に移動し、隆起し、侵食され現在の金華山の形になったのです。
金華山を形成するこのチャート層は非常に固く、雨が降っても土の山に比べてすぐ水が流れてしまいます。けっして、植物が育つ環境として適した山ではないのですが植物は、この環境で必死に生きています。
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6.金華山頂上からのながめ |
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金華山から楽しめる眺望は、北側から西の方向では、長良川・鷺山・岐阜県と福井県の境にある能郷白山(のうごうはくさん)・池田山・伊吹山・養老山脈から伊勢湾まで晴れた日には望むことができます。南側には、138タワー・JR名古屋駅セントラルタワーなどの名古屋市が一望でき、東側では恵那山・中央アルプス・乗鞍岳(のりくらだけ)・北アルプスまで楽しめます。
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